第300 父の死

2009年12月06日

                   子供時代

 男5人女2人の長男として、大正13年1月3日に生まれました。幼いころに大病をします。当時は、現在ほど医学も発達してなく、「もう、この子の命は無い」と言われ、一か八かで治療した事が、結果、順調に回復をし、元気な身体に戻ったという事です。
 子供のころは、「尋常高等小学校」勉学は極めて優秀でした。学区の(愛知郡)弁論大会に出、最優秀賞を取った事もあります。

                 大工見習い始め

 14才卒業と同時に、親である巳の助の下で、大工の修行に入ります。人望の厚い巳の助は、滋賀銀行の金庫の修理をするなど、ご贔屓にあずかっていました。晃三の初仕事は、草津滋賀銀行の改修工事だったそうです。親に書いてもらった地図を片手に、中仙道をひたすら南へと自転車をこぎ、現場へ向かったと言います。今草津へ向かっても、車で1時間はしっかりかかります。幼い子供にはさぞかし、心細い道のりだったと想像します。現場では、職人さんの飯炊きと、おかず作り。調理の経験のない晃三は、毎日メザシを焼いていたとか!

                  陸軍上等兵

 青春時代を迎えますが、時も太平洋戦争に向かいます。昭和18年神戸製鋼所へ徴用工として勤務につきます。翌年、日本陸軍に入隊。敦賀から中国へと向かいます。運動より勉学の得意だった晃三は、入隊と同時に、陸軍2等衛生兵として教育を受けます。その後、1等から陸軍上等衛生兵と出世を果たしますが、同時に、激化する戦場へと向かいます。
 晃三は、戦場では、銃の訓練は一切受けず、引き金を引く事は最後まで無かったと言います。それより、戦場で被弾した戦友の傷の手当てに翻弄し、いくつかの命を拾い同士のために戦っていました。日本本土では、日本軍の勝利、これまた勝利というように湧きかえっていたようですが、戦場では後軍からの物資の支援も届かないまま、餓えもひどく感じていたそうです。敵機から身を潜めるために、青い麦畑に身を潜め幾晩か。のどの渇きも葉っぱにある露で湿らす程度。水溜りの水を版合ですくい集め、煮沸をし上水を飲むと言った、厳しいものだったそうです。
 昭和20年、広島・長崎に原子爆弾が降下され、多くの人命を失い、終戦を迎えました。終戦後晃三は、中国に抑留されます。翌年、復員をしますが、途中の復員列車で、広島の悲惨な現状を目のあたりにし、厳しかった戦争の爪後に、自分は大工として社会のために家づくりを通し、貢献したいと誓ったそうです。
復員は、昭和21年6月10日、時の記念日です。
 十数年前に、戦友からこんな手紙が来ました。「僕が、機関銃に打たれ後軍に運ばれたときに、川村君が応急処置を手厚くしてくれた。その後病院で治療を受け回復をしたが、君のあの時の処置が良かったから、今の自分がある。感謝をしている。現役から降り余生を社会のために尽くそうと思っている。」という事が書かれてありました。川村君のおかげでといった手紙は、3通ありました。
 戦後60数年になり、どんどん戦争が風化していきますが、「戦争は絶対アカン」という、語り部が、また一人無くなった事が悲しくてなりません。

                大工という大黒柱

 その後は、近所の農家の小作もさせていただきながら、大工仕事という事になります。そう簡単には大工仕事があるわけでもなく、一家の大黒柱として食いぶちを探るために、京都への大工の出稼ぎも2年ほどやりました。稲枝駅始発、帰りは終電。時には、現場でカンナくづを体に巻いて泊まりで、寒さをしのぎながらだと言うから、驚きです。
 戦後の復興時代と、高度成長時代に入り、地元でも次々と仕事が入ってくるようになります。一次は、七人の職人さんを抱えるほどに成長をします。私が小学時代です。中学校一年生の時、念願であった自宅を新築します。家の造りも、民家の装いから、現代的な間取りや形へと変わっていきます。機械化も、地元ではいち早く取り入れ、効率化を図っていきました。このころ、兄弟子の大倉さんが、弟子入りを果たします。私も、続いて晃三のもとへと弟子入りをします。15 才の時です。そのころからは、一年に2~5棟の建築をするようになり、順調に事業を伸ばしていきました。
 元々好きだった、盆栽や庭いじり。家の前が作業場という事で、狭くあいた空間で趣味を楽しんでいましたが、昭和62年作業場の移転に伴い、大好きだった念願の、日本庭園を作りました。それから4年の大工としての現役時代で、終わりました。67才の時です。

                  余生を楽しむ

 現役を退いた父は、体の不調を訴えくまなく検査をし、少しづつ治療を重ねながら健康を取り戻していきました。
 字の神主や老人クラブをし、自治会での社会奉仕も盛んに取り組んでいました。あいさつ看板・飛び出し注意の看板・藤棚の整備・三世代奉仕の取り組み・公園のベンチつくり・ペンギンンのつまようじ立てや神酒口の製作・公園のサツキ植えや松の手入れなど、数多くの社会奉仕を楽しみながらしてきました。
 趣味の盆栽や山野草では、株分けや球根の世話をし交配させ・蓮などは株分けをし、友人・近所の方に頂いてもらい、喜ばれていました。
 社会への奉仕と言うからには、とんでもない立派な事で!というのではなく、自分に出来る事、甲斐性にあった事でも、世間の人たちは喜んで下さる、という事を自然と行い、自然体で私たちに、その広い背中で教えていたのだと、無くなった今、感じています。
 浄源寺の渡辺さんの推薦で、BBCの「ほのぼの大賞」社会奉仕部門で、表彰もされました。立派だと思います。

                  病気と闘う

 晩年は、肺気腫というつらい病気で、酸素ボンベ片手に生活をしていました。お天気の良い日は外に出かけていましたが、そのほかは縁側を工房として、竹でトンボやツルのクラフトを作るなど、手先を使った楽しみ事で、時間を楽しんでいました。また、書道も楽しむ事もあり、掛け軸にしてはその出来栄えに満足そうでした。竹細工は、病院・役所・銀行など、近隣のお宅にもと、どこへ行っても飾ってあり、父と友好があったという事がわかります。
 病気と仲良くと言いますが、そんな訳にはいきません。だんだん酸素を話さない時間が増えてきました。また、違った病気も出来、発見した時はもう、手遅れ状態でした。
 最後の入院は、たった3日間でした。おむつはしているものの、最後の最後まで、立っておしっこに行く、という態度で、「大丈夫」を家族に見せていました。本当に最後まで。
 最後の2時間に、家族・親戚がすべて揃う中、静かに息を引き取りました。
 
              父は最後まであっぱれだ

 私は15才からおおむね20年間一緒に大工をしました。この間を思い出しても、仲間の大工さんよりいち早く、木工機械を取り入れたり、営業許可をとったり、車の免許証・建築士・1級技能士・職業訓練指導員など修得しました。「仕事が無くて暇だ」という時期も一切なく、バブルで仕事が出来ないくらいあるという過剰な事もなく、いつもコンスタント。家を建て、庭を作り、戦争で日本のために奉仕した時と同じように、晩年は地域社会のために御奉仕をしてきました。86年間生きてきた足跡は、誰に消せるものでもなく立派だと尊敬をします。小さくなった背中を見ても、やっぱり父の背中はとてつもなく広くて、語りかけてくれていたのですね。
 面と向かって、ありがとうと言った事はありませんが、無くなった今、心からお礼を言わせてください。
  
 お父さんありがとう。

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Posted by 東近江 川村工務店 at 00:00│Comments(0)樹湖里っ子(きこりっこ)
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